あかつきブログ

仏教、音楽、世の中の出来事、サッカーなどについてあかつきが感じたことをゆるーく書きます(^-^)

僧衣でできるもんについて(たぶんラスト)

はじめに

私はTwitterハッシュタグ「僧衣でできるもん」に動画を投稿して、そして削除しました。

その経緯については以前ブログに詳述したので、改めて書くことはしません。

 akatsuki-blog.hatenadiary.jp

 

akatsuki-blog.hatenadiary.jp

 

今回は

www3.nhk.or.jp

このような報道があったので、一度動画を投稿した身として総括しておこうという趣旨です。

 

・僧衣での運転について

以前ブログに書いたように、私の投稿した動画に運転しやすさをアピールする意図はありません。

また、私の衣姿は警察の方たちに認めていただいていると認識していることや、より交通安全の徹底を望んでいることも書きました。

ただ簡単にしか書いていなかったので、今回の件を通して思ったことなどを付け加えます。

 

まず、改めて私自身の安全性について考えてみました。

普段、運転する際は間衣という道中着で、雪駄は靴に履き替えて、お念珠は鞄にしまっています。

エンジンをかけずに袖や裾がひっかかるか検証してみたところ、ひっかかるためには相当無理な体勢をとらなければならないことがわかりました。

そのような体勢をとる確率は限りなくゼロに近いですし、そのような状況に追い込まれたときには僧衣でなくとも危険でしょう。

また、私の感覚としては体がある程度締め付けられる私服よりも、可動範囲が広がって体を動かしやすい僧衣のほうが運転しやすいです。

もちろん個人差はあると思います。

 

次に、どのような格好が危険かを判断すること自体が難しいなと思いました。

安全な格好とは「事故が発生する確率がより低い格好」だと(勝手に)定義して話を進めます。

おそらくこれを見極めるのはとても難しいでしょう。

少し動き辛い格好のほうが事故発生の確率が低下する可能性だってあるのではないかと思います。

というのも、「多少動き辛い服を着ている」と意識することによって安全に運転しようという意識が高まるかもしれません。

また、私服よりも制服のほうが慎重に運転しようと思うなど、格好の違いが心境に影響する可能性があると思います。

僧衣を着ると、お坊さんのイメージを傷つけないように無茶な運転を避けようとするかもしれません。

今回の報道や議論を見ていて、サム・ペルツマンのシートベルトの話を思い出しました。

よかったらググってみてください。

また、何が人の行動に影響を与える誘因(インセンティブ)となるか見極めるのは難しく、しばしば人の直感とは異なるものだという話は『その問題経済学で解決されます』に詳しく解説されています。

 

str.toyokeizai.net

 

もちろん、動き辛い格好になるほど事故の確率が増える可能性もありますし、何を着れば安全なのかは様々な状況下で実験して結果を比較してみなければわからないのではないでしょうか。

 

そして、わかったとしてもどこまでのリスクを許容するかという問題もあります。

僧衣が平均よりリスクが高い格好だとわかったとしても、それと同程度のリスクをかかえる服装を取り締まるかどうかも難しいですね。

裁量で判断されることを避けようとすれば、規制が増えて窮屈になるのを受け入れるか否か・何が安全なのか調査するコストを受け入れるか否かという選択を迫られるでしょう。

世論としては、調べるまでもなくこれまでも僧衣で普通に運転してきたのなら大丈夫なのでは?という感覚があるように思います。

明確な基準が欲しいという声がありましたが、どのように基準を定めるのか・どこまでのリスクを許容するのかという議論は深まっていません。

 

と色々書きましたが、結論としては以前のブログに書いたようにできる限り安全第一を求めるということで変わりありません。

 

あと池口龍法さんがおっしゃっているように衣の改良もありだと思います。 

www.rbbtoday.com

 

また、自動運転など車の技術が進歩することによって服装問題が解決される可能性もあるでしょう。

 

・僧衣でできるもんへの批判について

まず、僧侶であっても人間ですから、自らの思いを様々な形で表現する自由があると思います。

また、その表現に対して批判をする自由があると思います。

ですから、今回の議論は健全におこなわれているという印象です。

私としては、自分を見つめ直す機会になるので批判や議論は大歓迎です(Twitterで議論する自信はないのですが)。

 

最初批判されている方の論旨がわかりませんでした。

しかし、内藤理恵子先生が丁寧に議論をされていたので整理することができました。

拾い切れているとは思いませんが、批判には以下のようなものがあったと思います。

 

・論点がずれている

・議論の邪魔になる

・交通安全という死に関わる問題を軽く扱っている、

・僧衣を粗末にしている

・本堂でふざけて良いのか

・真面目な僧侶が迷惑する

・僧侶の品格を下げる行動は慎むべきだ

 

そこから派生して

・意識高い系への不満

・伝統を守る意識が欠如していることに対する歎き

などもあったように思います。

これはまた機会があれば別の記事に書くかもしれません。

 

本堂でふざけて良いのか?という指摘には、私も一部共感します。

動画を投稿した方たちがふざけていたとは思いません。

でも、私自身ご本尊に背を向けて法話をするとき、いつも恥ずかしい思いがこみ上げてきて葛藤するというのはあります。

本堂で演奏する際も、できるだけご本尊に背を向けるのは避けるようにしています。

ただ、ご本尊は本堂にだけいらっしゃるわけではありませんし、「これをしたら救われない」と考えるのは仏智疑惑ではないかとも思います。

宗派の中でも意見が分かれるでしょうし、今後も課題として考え続けていきます。

すべての項目について書くことはできませんが、その他の批判についても一つひとつ検討して自分を見つめ直す機会にさせていただいております。

 

私は元々リバタリアンでした(今はリベラル寄りですけど)。

他者の自由を侵害しない範囲で自由があると考えています。

娑婆において絶対的な正解や真理があるとも思いません。

ですから、議論を通して自分自身を見つめ直した上でまだ考えを曲げたり行動を変えたりしたくないのであれば、あとは他者の自由を著しく侵害しているかどうかを判断基準とします。

他者の自由を侵害すると判断すれば、自分の気持ちに関わらず行動を変えることもあるということです(パレート効率の考え方も根っこにあります)。

 

今回の件に関しては、当初批判を受けとめつつも他者の自由を奪ってはいないという判断から動画の削除はしていませんでした。

では、なぜ動画を削除したのかというと、理由は以前のブログにも書きましたが抽象的だったので本ブログ中に後述したいと思います。

 

・僧衣でできるもんは成功だったのか

青切符が切られたものの「証拠が不十分」として書類送検されなかったという結果に終わりました。

ハッシュタグのバズりがあった場合となかった場合で警察の対応が変わったのかどうかはわかりません。あったとしても、そのような裏事情は発表されないでしょうし。

私としてはできるだけ表に出ている情報だけで判断したいので、「証拠が不十分として書類送検されなかった」という認識に留めておきたいと思います。

その上で邪推するならば、ハッシュタグがあってもなくても「負ける可能性がある」という理由で裁判まで持ち込まなかったのではないでしょうか。

また、圧力が効いたのだとしてもハッシュタグというよりは本願寺派を意識したのではないかと思います。

 

では、僧衣でできるもんは失敗だったのかと言われるとそうとも言い切れないです。

法は民主主義によって作られるもので、上から押し付けられるものではありません。

世論の後押しは必要だと思います。

僧衣が一般の方が思っている以上に動きやすいことがアピールできたのではないでしょうか。

ただし、アピールが成功した要因はハッシュタグを後押しする報道がほとんどだったことによると思います。

ワイドショーなど、メディアの取り上げられ方によっては世論がひっくり返る危険性もあったでしょう。

教えや、その受けとめには多様性があって良いと思いますし、一部僧侶の行動だけで全体の印象が落ちるとは思っていません。

むしろ堕落した僧侶が跋扈する中において、真面目で愚直な僧侶がより輝くということだってあるのではないでしょうか。

堕落した(ように見える)僧侶が、誰かに仏縁をもたらすこともあるでしょうし。

ただし、今回のように世論がどちらに転ぶかわからない上に大きな反響がある中では、仏教界全体に反発する空気が醸成されてもおかしくなかったと思います。

そうなってしまっては、ハッシュタグに参加していない方の自由を著しく奪うことになるでしょう。

これが、私にとって動画を消す理由の一つになりました。

 

ですから、アピールに成功したとはいえ僧衣でできるもんを手放しで称賛しようとは思いません。

ただ、今後の行動や展開次第でまた変わってくるでしょう。

 

注目を浴びたなかで、法を説き・愚直に頑張る僧侶が日の目を見て・交通安全や仏教界を考え直す機会となるならば、ハッシュタグがあって良かったと思えるときがくるかもしれません。

これからの私たちの行動次第ではないでしょうか。

 

おわりに

バック宙をされ方、青切符を切られた僧侶の方、青切符を切った警察の方が苦しんでいないことを願っております。

もし苦しんでおられるとしても、力になることができないことを悔しく思います。

また、ハッシュタグに投稿して指摘を受けた方も、指摘をした方もともに心に傷を負っていないことを願います。

 

私は正直、自分の投稿にいいねやRTが増えていくのが怖かったです。

ハッシュタグに抗議の意図はなかったとしても、僧侶VS警察という対立の構図で捉えられた面もあったと思います。

青切符を切った警察の方は、ハッシュタグを含め今回の件で相当の圧力を感じたのではないでしょうか。

これが動画を削除した2つ目の理由です。

もし苦しまれているようであれば、周りの方々がケアしていただきたいです。

これで一応区切りにはしますが今後も考え続けますし、また気付いたことがあればブログを書きたいと思います。

 

真宗僧侶である私としてはお念仏が大切であり、信心が問われ続けていくのだと思います。

そのなかで教えを通して、人の悲しみに寄り添い、人を楽しませることもできたら素敵だなと思います。 

これからもよろしくお願いいたします。

 

南無阿弥陀仏

最近聴いている曲

最近聴いてる曲をなんとなく集めてみました。

好き嫌いというより気分です。

ヒップホップは入れると曲数が多くなりそうなので、またそのうち別の記事に書くと思います!

 

Hare Squead - Flowers

youtu.be

2017年の曲ですが最近また聴いていました。

ヒップホップ以外の曲でって書きましたけどいきなりラップですね(笑)

ポップでたまに聴きたくなる曲です。

 

Maisha – Osiris

youtu.be

UKジャズが盛り上がっているみたいですが、私としては好きになりそうでなりきらない曲やバンドが多いです。

でもこのバンドは素直に良いなと思いました!

 

Seeb, Bastille – Grip

youtu.be

EDMは曲の盛り上げ方やアレンジの参考にするために聴くことが多いです。

Seebはいつもポップでツボを押さえているイメージで、Bastilleはあまり聴いたことなかったのですがこの曲ではいい感じだなと思います。

あと歌詞に惹かれました。

 

Makaya McCraven Studio Sessions Live Set | Red Bull Music Festival

youtu.be

ヒップホップに影響受けてる系ドラマーの中では一番好きかもしれません。

かっこいいです。

 

ZOMBIE-CHANG『モナリザ

youtu.be

最近似てる人と会ったので存在を思い出して聴いてます(笑)

サウンド的には以前より洗練されている気がしますが、相変わらずちょっとアングラ感があっていいなと思います。

 

jan and naomi-CSKE

youtu.be

モデルもやっているというビジュアル面も含めた音楽という気もしますが、それも才能のうちだと思います。

でも私もこういう方向性の音楽やってみたい欲あるんですよ実は。

ビジュアル的には厳しいですが・・・

チルアウトな感じです!

 

鈴木実貴子ズ かえりかた

youtu.be

説得力ありますよね。

あぁ、自分はかえりかたを忘れてしまったんだなぁと素直に思いました。

 

思いのほか曲数が多くなったので今回はこれくらいにしておきます!

【大恋愛 ~僕を忘れる君と】

大恋愛 ~僕を忘れる君と】2018年 TBS系列 金曜22時

https://www.tbs.co.jp/dairenai_tbs/

 

あらすじ

女医の北澤尚(戸田恵梨香)は、婚約者である井原侑市(松岡昌宏)との結婚式1か月前に、引越のアルバイトをしている元小説家、間宮真司(ムロツヨシ)と運命的な恋に落ちる。同じ頃、尚が軽度認知障害(MCI)に侵されていることが判明する。それでも尚と真司はともに生きていくことを選び、2人の生活の様子を真司が小説に書いていく・・・というストーリー。

 

感想

昨年、全話録画しておいて年明けに一気に見ました。

まずは・・・

ムロツヨシがイケメンです!

戸田恵梨香が綺麗なのは当然ですが、ムロツヨシさんがめちゃくちゃかっこいいんですよ!

1話を見たときは正直キャスティング的にどうなのかなと思ったのですがハマリ役でした。

あと、このドラマの質が高い理由は出演者が演技派揃いということもあるでしょう。

最初から最後まで落ち着いて見ることができました。

 

前半から中盤くらいまでは普通の良質な恋愛ドラマという感じです。

結婚が決まったところに好きな小説の作者と出あい恋に落ちる・・・ってベタと言うかいかにも物語!というような出来すぎた話ですけど、違和感はなかったです。

演技力なのか脚本が良いからなのか、病気と向き合うというその後の展開が事前に分かっていたからなのか、その理由は一つではないと思います。

恋愛ものに病との闘いが加わるのもまたベタなのですが、それを真正面から超えていく力がこのドラマにはあったということでしょう。

 

後半は、尚が軽度認知障害(MCI)から若年性アルツハイマー病になるにつれて考えさせられる台詞やシーンが増えていきました。

 

「あの人とは対等なのに、私とは対等じゃないんだもん」

尚が真司に放った台詞です。

真司が小説を執筆する上で、尚は良き相談相手になっていました。

しかし、真司は主に担当編集者の水野さん(木南晴夏)と打ち合わせしながら小説を書いていきます。

仕事なので当然なのですが、尚にとっては病気が進行することによって真司が私を対等に見てくれなくなった、私よりも水野さんを選ぶようになったと感じたのでしょう。

「対等」って難しいですよね。

私は、困っている人を「かわいそうだ」と思う差別心を自分の中に見ることがあります。

心配しているふりをしながら、他者を下に見ることによって優越感を得ようとするのです。

無意識的にそのような状況に陥っていることが多く、これはなかなか抜きがたい感情なのだと思います。

だからといって、困っている人をそのままにしておいて良いのでしょうか?

全員同じ条件で暮らすことが対等なのでしょうか?

そもそも対等の定義は決められるものではないのでは?という問いは置いておいて、私見を述べると対等とは「対等に権利をもつ」ということではないかと思っています。

話がズレていきそうなので、また別の機会に詳しく書くことにします。

 

そんな尚に水野さんがかけた言葉です。

「奥さまは、生きてるだけで、先生の創作の源なんです。大切な、大切なやる気の元なんです」

尚はこの言葉に納得した様子なのですが、私としては少しモヤりました。

これは価値の話なのでしょうか。

「創作の源である」という価値がなければ、尚と真司は対等ではないのでしょうか?

でも、たぶんそういうことではないのでしょう。

「真司に私のこと書いてもらうのは私の生き甲斐なの。それが他の誰にも真似できない、私たちだけの夫婦の形なの」

「だから本当は対等かどうかなんてどうでも良いの」

尚の発言です。

先程の水野さんの言葉は真司にとって尚は価値があるという意味ではなく、尚と真司は出あうべくして出あった、縁があって結びついたのだということを表していたのではないでしょうか。

考えてみれば、人と人とが出あってともに過ごすことに理由はいらないですもんね。

 

後半の見どころは尚と真司の関係だけではありません。

尚の元婚約者であり主治医である侑市と、尚の母である北澤薫(草刈民代)の年の差婚は驚きました。

侑市も薫もそれぞれ恋愛が描かれるかなとは思いましたが、この二人がくっつくという展開は予想できなかったです。

侑市はそれまでの人生を堅実に生きてきており、結婚相手も条件に合うか合わないかのみを基準に探してきたのですが・・・

「目が覚めたからこうなったんだ」

「年は関係ないよ」

型にはまっていた人生から勇気を持って飛び出したのですね。

生きていく上で型も必要だと思いますが、型が自分の助けとなるのか、縛られてしまうのか境目が難しいなと思います。

 

さて、このドラマ、概ねおもしろいなと思ったのですが、気になったのは小池徹平が演じる松尾公平の存在感が大きすぎるのではという点です。

尚と同じ若年性アルツハイマー病を患う保育士の役でしたが、キャラが強すぎて侑市と薫の恋や尚と真司の生活よりもある意味目立っていたかもしれません。

このバランスで良かったのでしょうか?

でも物語のスパイスとして効いていたのも事実ですけどね。

色々と考えさせられました。

病気と闘っている人を一括りにして「いい人」だと思ってしまうことがあるように思います。

でも、当たり前ですが人間は一人ひとり性格が違います。

松尾は悪意の行動によって尚や真司をかき回していました。

その行動の裏には病気が原因で離婚したり、生きがいであった仕事を奪われたりと事情があるんですよね。

だからといって、して良いことと悪いことはあると思いますが。

ちゃんと一人ひとりの存在に向き合えているのか?という問いをもらったような気がします。

あと松尾が刹那的に生きている第8話あたりは寂しさや虚しさが伝わってきましたが、若年性アルツハイマー病が進行して様々なことが認識できなくなった最終話では幸せそうに見えたのが印象的です。

松尾の存在はまだ私の中でも消化しきれていません。

小池徹平の怪演でした。

 

色々と書いてきましたが、一番強い印象としては感想の冒頭に書いた通りムロツヨシがイケメンだということです。

「おれは尚ちゃんじゃなきゃ嫌なんだから。他の誰かじゃダメなんだ」

この台詞もすごい良かったしイケメンだし、まったく違和感はありませんでした。

考えさせられることも多かったですが、タイトル通り尚と真司の「大恋愛」として見ることが出来たのは、主演の二人の好演によるものでしょう。

録画しておいて正解だったなと思います。

 

私の満足度7(10段階)

続・僧衣でできるもんについて

5日の朝、ツイッターの演奏動画を削除いたしました。

 

理由

・私の投稿にはハッシュタグの元の意味(僧衣での運転に関すること)が含まれていないため

・他者を傷つける可能性、他者の自由を著しく侵害する可能性に思い至ったため

 

以上の2点です。

 

感じていること

私としてはふざけて投稿したわけではありません。

前回のブログにも思いを綴っております。

 

akatsuki-blog.hatenadiary.jp

 

ですが、ふざけていると受けとめられる可能性があるということに配慮が足らなかったことは事実だと思います。

他の方の考えは分かりませんが、実際にふざけて投稿された方は少ないのではないでしょうか。

・個人の裁量による取り締まりへの懸念

・僧衣について知ってほしい

・大切にしているものや自身の生活を知ってほしい(私の立場です)

そのような思いを持って投稿されている方がほとんどで、その試みは今のところ概ね成功しているように見えます。

ただ、世論というものはどう転ぶかわかりませんから、今後も受け入れられるとは限らないでしょう。

 

また、僧衣とはいっても法要の際の衣は綺麗に整えて、法要は法要として真摯に執り行なっております。

今回の件は改良衣や間衣(かんえ)と呼ばれる道中着についての議論です(よね?)。

間衣を着ている間は法要ではなくて普段の生活ですから、洋服を着ているときにしていることを間衣を着ているときにしてはいけないと感じるのは、未熟な内面を差し置いて外面ばかりを気にする私の在り方の表れなのではないかと受けとめています。

楽器は下手くそですが、音楽は私の生活の大きな部分を占める大切なものです。

ですから間衣を着ながら音楽を演奏するのも自然な行為ではないかと考えております(葛藤は抱えていますが)。

もちろん、生活のすべてが仏教に包まれているという前提においてです。

ただ、うちの宗派だからこそこのような議論も許されるのだという認識に欠けていました。

 

僧衣で楽器を吹き始めたきっかけ 

私はおとなしい性格で、もっとパーソナルな部分が知りたいとお寺をともに支えてくださる御同行から要望を受けることもあります。

そのような気持ちを受けとめて、仏教の教えを絡めたミニコンサートを開催したり、坊さんバンドなどでの活動をしております。

発信に関して不安に感じていることがあるときは、みなさんにお聞きするようにしています。

実はYoutubeでの発信をしていこうか迷っており提案しているところです。

また行事ごとにアンケートを実施する予定で先月の行事から始めました。

法要や普段のお参りの際も、お経の速さや声の高さなど、その場をどのように作っていくかできるだけ話し合うようにしております。

お寺に足を運んでくださる方やご縁がある方とともに行事を作り、発信していきたいです。

ただ、コミュニケーションを取ろうとしていることに胡坐をかいて、実際にコミュニケーションが取れているかどうか確かめることを疎かにしているかもしれません。

そして、気軽に要望を言っていただけるような関係性を作っていきたいと思います。

 

おわりに

今回の件は、私にとって良いことしかありませんでした。

音楽仲間との出あい、手の綺麗さを褒められる、メキシコの僧侶の方と知り合えた、自分の承認欲求・軽率さ・考えの至らなさに気付かせていただいた・・・などなど。

しかし、誰かの幸福度を下げてまで、自分だけ幸せになるのは私の思いに反します。

 

僧衣で演奏することに関しては、賛否は有ると思いますが誰かの自由を侵害するまでには至っていないと思うので発信を続けます。

 

それにしても大きな問いをいただいたことだなぁと思います。

 

この投稿をもって「#僧衣でできるもん」に関する考察からは一旦離れます。

事態に進展があれば、いつかまた総括したいと思います。

 

南無阿弥陀仏

僧衣でできるもんについて

あけましておめでとうございます。

本年もよろしくお願いいたします。

 

お正月はゆっくり読書をしながら体を休めようと思っていたのですが、想定外の出来事が起こりました。

 

#僧衣でできるもん

 

です。

 

全体の経緯を詳しく知りたい方は、へんもさんのブログをご覧ください。 

henmo.net

 

この記事では、実際にこのハッシュタグを使用して投稿してみた私の受けとめを主に述べさせていただきます。

 

・経緯

元々は以下のニュースを元にできたハッシュタグでした。

www.yomiuri.co.jp

 

僧衣が理由で取り締まり対象となったお坊さんがいるというニュースから、個人裁量によって取り締まり対象が決まってしまうことへの懸念の表明と、一般に考えられているよりも僧衣が動きやすいことをアピールするために「#僧衣でできるもん」というハッシュタグが誕生しました。

 

・私が投稿した理由

実は以前にも同様の演奏動画を投稿したことがあります。

新春ということで楽しんでいただこうと思いから、元々お正月に僧衣での演奏動画を投稿するつもりでいました。

 

ハッシュタグを使用した理由

3点あります。

その1、ハッシュタグの意味がかくし芸大会に変化した

前述のブログにもある通り、時間を経るごとに新春かくし芸大会のようにお坊さんの特技を披露する場としてハッシュタグが楽しまれるようになりました。

私が動画を投稿する趣旨と合致すると考えました。

 

その2、ハッシュタグを通して伝えたいメッセージがあった

私は普段から衣を着て演奏する機会があります。

そして、僧衣を着て演奏することには葛藤を抱えています。

仏教を利用しているのではないかという思いや、罪悪感も常にあります。

しかし、「お坊さんバンド」として演奏することによって多くの方が心を開いてくださいます。

演奏先で出会った方々と交流したり、お寺の行事に呼んでいただいたりと仏縁の広がりを感じてきました。

そこでハッシュタグの意味を広く捉えて

「僧衣で(仏縁をいただくような演奏が)できるもん」

というメッセージとして使用しました。

前述のようにハッシュタグ自体の意味が変化してきていたので、もう少し広く解釈することも可能かと思いました。

常に葛藤しながら演奏している自分を鼓舞する意味もあります。

 

その3、多くの方に見ていただきたかった

このハッシュタグを使用するかは最後まで迷って、「#僧衣でサックス吹けるもん」や「#僧衣でサックス吹いてるもん」というようにわかりやすくオマージュにしようかとも思ったのですが、できるだけ大勢の方に見ていただきたいという思いで元のものを使用しました。

なお、誤解が生まれないように「運転の件とは関係ありません」という趣旨のツイートも合わせて投稿しました。

 

・僧衣での運転について思うこと

実は僧衣で運転している途中、警察の方とお話する機会が何度かありました。

困っているときに助けていただいたこともありますし、私としては警察の方に感謝の思いしかありません。

また、その際に特に注意を受けなかったことから考えて、私の格好は運転に支障なしと判断されているのではないかと思っております。

現在ニュースになっている件は事情がはっきりするまで静観するつもりです。

もし僧衣が運転に支障があると判断されるのであれば、私もその判断に従って安全対策をします。

本件をきっかけに、より一層安全運転を心掛けたいと思います。

 

・おわりに

たくさんのRTやいいねをありがとございました。

今回のツイートを通して新たな音楽仲間との出あいがありました。

サックス上手くなりたい、アドリブできるようになりたいと思っているので、ぜひ一緒に練習していただきたいです!

ご縁が生まれてとても嬉しいです。

 

とはいえ「#僧衣でできるもん」のハッシュタグをそのまま用いて投稿したことは、軽率で考えが甘かったと反省しております。

演奏動画の内容に関しては問題ないと判断して、今のところツイートは削除しないつもりです。

 

これからも間違いや軽率な行動を取ってしまうことがあろうかと思います。

その際はぜひ指摘していただきたいです。

自分を見つめ直しつつ、活動を続けてまいりたいと思います。

あと、手が綺麗だとお褒めを頂いたことが一番嬉しかったです。

 

南無阿弥陀仏

『スタディーズ 空』

スタディーズ 空』(春秋社) 梶山雄一

 

honto.jp

 

「♯2018年おすすめ仏教書」シリーズです。

 

以前『空入門』を読んだことがあるので一応再読ということになります。

分かりやすく書かれていたという記憶があったのですが、たしかに文章自体はやわらかいものの内容は骨太です。

気を付けないと意味が取れなくなってしまいます。

素直にそのまま読めば良いだけなんですけどね。

油断していると実体化して考えようとする気持ちも出てきてしまいますし、そうなると読めなくなります。

 

以前読んだときは学生だったのですが、分からない部分を読み飛ばして比喩の部分だけをつまみ食いして分かった気になり、師匠を呆れさせたことがあったなと思い出しました。

 

龍樹の論法が丁寧に説明されており、また龍樹に影響を与えたと思われる思想について書かれているのがありがたいです。

 

梶山先生はAとBがお互い影響を与えあうというような、二つのものを実体化する単純な相依関係を述べられているイメージがあったのですが、はっきりと否定されています。

間違って記憶していたことに気付けて良かったです。

 

本書を読んで、久々に中観派についての勉強を再開したいなという思いが強くなりました。

来年は頑張る・・・かもしれません。

 

おさえておいて間違いのない、自信を持っておすすめできる一冊です。

『阿弥陀経に学ぶ』

阿弥陀経に学ぶ』(東本願寺出版) 廣瀬惺

 阿弥陀経(あみだきょう)に学ぶ | 東本願寺出版

 

Twitterの「#2018年おすすめ仏教書」でおすすめしていただいた本です。

なんと父が購入しており、リビングに置いてありました。

これも何かのご縁ですね。

 

以前、著者の廣瀬先生の講義は受けたことがありますし、勉強会で何度かご一緒したこともあって面識があります(覚えていただいているかはわかりませんが(笑))。

本書は講義をまとめたもので、先生の語り口が聞こえてくるような文章だなと思いました。

 

解学・行学のお話、有縁の法のお話、読誦のお話は先生から何度も伺ったことがあり、懐かしいなと感じました。

私にとっては廣瀬先生と言えば「読誦」という印象です。

真宗の教えに触れた当初頭でっかちになりそうだった私にとって、とても印象に残っている教えです。

これからも大切にしていきます。

 

また、先生は「生活」という言葉もよく使われます。

遠くにいる仏さまの遠い世界の話ではなく、現在を生きる私たちが聞かせていただく教えなのですよね。

 

カーラとサマヤの話は亡くなった私の師匠がよくお話しされていたのですが、ひょっとすると廣瀬先生から聞いた話だったのかもしれません。

今度廣瀬先生にお会いしたら直接お聞きしようと思います。

 

全体の印象としては、阿弥陀経の内容に沿って思った以上に網羅的に書かれているなと思いました。

もちろん、内容が薄いということではありません。

大変勉強になりました。

毎日読んでいるお経にも関わらず、まだまだ勉強不足だなと痛感させられました。

まだ一読しただけなので、三部経を学ぶ際に再読するつもりです。

 

先生のお味わいが存分にいただける一冊でした。

おすすめいただき、ありがとうございました。