以前から読みたいなと思っていて本屋に行くたびに岩波文庫の棚を眺め続けていたのですが、たしか去年の後半くらいに見つけたので即購入しました。
読んだのは最近です。
気になった評論について簡単に感想を書いてみます。
・なぜ書くか
「わたしは、おそらく五つか六つのごく幼いときから、大人になったら物書きになるのだと思っていた」(p7)
という書き出しが印象に残りました。
・象を撃つ
空気、熱狂の怖さが描かれていると思いました。
・思いつくままに
「最終的にどちらが歴史書に入ることになるかを決めるのは、証拠調べよりも戦場だろう」(p226)
「どれにも全面的に相反する答が無数にあって、最終的にはその一つが、実力闘争の結果採択されるのである。歴史は勝者によって書かれるのだ」(p227)
歴史を学ぶということについて考えさせられます。
・英国におけるユダヤ人差別
「自分の考えが矛盾していることは充分承知していても、やはりユダヤ人差別かすくなくともユダヤ人嫌いから逃れられない人もいるのだ」(p262)
「唯一の対策は、ほかの問題については正気の人々が、この特定の問題となるとなぜばかな話を鵜のみにできるのか、その理由を突きとめることだ」(p264)
現代のヘイトスピーチに通ずるものがあるなと思いました。
データや事実が示されていても、それを無視したり捻じ曲げた上で議論がおこなわれることがあります。
とはいえ事実を知らないがゆえに起こる差別もあるので、まずは自分が学ぼうとする姿勢が大切ではないでしょうか。
「ユダヤ人差別を論じたものがほとんどすべてだめなのは、その筆者が自分だけはそんなものとは無縁だと心の中できめてかかるからである」(p274)
「したがって、ユダヤ人差別について検討しようとするのなら、「なぜあきらかに非合理なこんな信念が世間の人々の心をとらえるのだろう?」とは考えず、当然、「なぜユダヤ人差別思想はわたしの心をとらえるのだろう?」という疑問から出発しなければならないわけである」(p275)
差別や社会問題が悪いことだと感じても、自分はそんなことしない、自分には関係ないと思ってしまいがちです。
そして、その根っこにはナショナリズムという問題があると示唆されています。
・ナショナリズムについて
本書の中で一番秀逸な評論であると思いました。
「わたしがこの言葉をかならずしもふつうの意味で使っているわけではないことは、すぐわかってもらえると思う」(p307)
と言うように、普通思い浮かべるような国粋主義というような意味に限定されていません。
よく使われる言葉だと「イデオロギー」に近いかなと思います。
何かの立場に盲目的にとらわれることをナショナリズムという言葉で表現されています。
「いったん自分の立場を決めたあとは、それが事実いちばん強いのだと自分に言いきかせて、客観的情勢がどれほど圧倒的に非であろうと、この信念を固守することができるのである」(p310)
「まずさいしょにソ連か英国かアメリカか、それぞれどこの味方をするかを決め、そのあとで初めて自分の立場の根拠になると思われる主張を探しにかかるのだ」(p311)
事実かどうかよりも、自分が信じる立場こそが正義だという姿勢が指摘されています。
これは私自身もやってしまうことがあります。
例えば経典をそのまま受けとめることなく、自説を強化できそうな部分だけを抜き出そうとすることをしてしまいます。
「行為の善悪を判断する基準はその行為自体の功罪ではなく、誰がやったかという点であって(中略)こうしたいかなる無法きわまる行為でも、それをやったのが「味方」だとなれば、まずたいていのばあいは道徳的な意味が微妙に変わってしまうのだ」(p321)
これは現代で言えば「ダブスタ」へのツッコミですね。
先程のものも含め、これらの指摘は現代の世界、そして日本にもほとんどそのまま当てはまるように思います。
そしてオーウェルはそのようなナショナリスチックな愛憎の念に抵抗することこそ道徳的努力だと言います。
「自分のほんとうの姿、ほんとうの感情を知り、その上で逃れられない偏向を知ることである。(中略)すくなくとも自分にそういう感情があることを認識し、それによって思考過程が歪むのを防止することはできるはずである」(p341)
人間誰もが偏っているのかもしれません。
ただ、「自分も偏っているのだろう」という自覚がなければ、正義を主張し合ってぶつかることになりかねません。
他者の声を「聞く」ということが問われてくるように思います。
まとめ
他にも
・鯨の腹の中で
・書評―アドルフ・ヒトラー著『わが闘争』
・出版の自由―『動物農場』序文
が印象に残りました。
私自身、世の中の空気や何らかの立場にとらわれて行動してしまうことが多いです。
きっとそのような方が私以外にもたくさんいるのでしょう。
だからこそ、オーウェルのように事実をそのまま見つめようとする人がいつの時代にも必要とされるのでしょうし、できることなら私もそうありたいと思います。