『反骨のブッダ インドによみがえる本来の仏教』(コスモ21) 髙山龍智
「#2018年おすすめ仏教書」その2です!
書店で立ち読みして感動し、そのまま購入しました。
感想
私がこの本を選んだ理由は二点あります。
その1「無常」の捉え方
「無常」と聞くとなげきとか、もの悲しいとか、暗いイメージで捉えられることが多いかもしれません。
しかし、筆者は「能動的かつポジティブな意味合いを持つ教えなのだ」(p31)と言います。
「恒常」を意味する「ニティヤ」が古典的なヒンドゥー教において理想とされますが、それはカースト下層の民衆にとってはこのままずっと苦しみ続けるという永遠の闇を意味するものでした。
「ブッダは、「アニティヤ」すなわち無常と言う言葉で「永遠はない」と否定したのだ」(p31)
差別されてきた民衆にとって「無常」が大いなる変化への希望となったと言います。
これは目から鱗が落ちました。
たまに「救われるかは気持ち次第だ」、「ありのままを受け入れよう」、「わがままを言う自分に気づかされる」という言葉を聞くことがあります。でも、それでは苦しんだまま諦めろと言っているようにも聞こえてしまうのです。
人は環境によって大きく左右されるのですから、本来味わう必要のない苦しみを抱えている方がいるのだという実情を「ありのまま」見るのであれば、その状況を変えようと思うのは自然なことではないでしょうか。
第六章に書かれている通り、親鸞聖人の生き方にも重なるように思います。
その2「歓喜」の捉え方
仏教を学ぶ学校にいた頃、同級生と朝まで語り合ったことがあります。
そのときのテーマが「歓喜」でした。
「歓喜踊躍」と言われても喜んで踊り出すという感覚がまったく想像できず、どういうことだろうかと語り合ったのです。
筆者は
「日本人の情緒表現と、インド人の情緒表現は、まったく異なる」(p82)
「しばしば、「インドの映画は、唐突に歌って踊り出す」と言われる。しかしこれこそ、インドの人たちにとって、ごく自然な感情の表現である」(p83)
と指摘します。
これが同級生と語りあった問いの答えなのかもしれません。
経典は翻訳されていると日本的な感覚に引っ張られて解釈してしまうのですが、元々はインドの言葉であり、インドの方が表現されたのだということを意識しておいたほうが良いなと思いました。
以上の二点に大きな気付きをいただきました。
また凝り固まりそうな時に再読しようと思います。