「誰もが生まれながらにして尊いのであって、ありのままで良いんだ」
「実は今この場にいることを全うすれば、そこが居場所となるのだ」
というような話は良く聞きますし、なんだか力が湧いてくる気がしますし、仏教的な考え方のような気もします。
でも、気をつけなければこれらの言葉は危険なメッセージになってしまうのではないでしょうか。
◎これらの言葉のいいところ
欲望にはキリがないですし、周りの誰かと比較して少しでも自分を良く見せたいという思いも抱えているのが人間でしょう(少なくとも私はそうです)。
それはとても苦しいことです。
望んでもすべてが叶うわけではないですし、一時的に叶ったとしてもずっと幸せが続くわけではありません。
常に周りも自分も変化し続けるのですから。
それに、誰かを押し退けて幸せを手にしているのかもしれない、そもそも生き物のいのちを頂かなければ生きていくこともできない・・・。
だからこそ、自分の慢心を見つめて、他者を傷つけていることを自覚することは大切でしょう。
身の丈にあった幸せというものがあると思います。
そういえば私自身、最近このような内容の法話をしたところです。
では、このメッセージは普遍性を持つのでしょうか。
◎これらの言葉の問題点
正確に言えばこれらの言葉自体の問題点と言うよりは受けとめ方の問題点ですが、どうしても「あなたはそのままで素晴らしい」と言われると「現状を受け入れろ」と言われているように聞こえてしまう面もありますよね。
今上手くいっていない人、差別を受けている人、いじめを受けている人、苦しんでいる人が「現状維持を受け入れろ」というメッセージとして受け取ったらどう感じるでしょう。
もちろんそれで救われることもあるでしょう。
諦めることによって心境的には少し楽になるかもしれませんし、自分が最悪な境遇にいるおかげでどこかの誰かが幸せでいられるのかもしれない(誰かの代わりに私が苦しんでいる=誰かのためになっているかもしれない)と思う人もいるでしょう。
それに、現状を受け入れざるを得ないこともあります。
でも、現状を変えられることだってあるのではないでしょうか?(少なくとも短期的には)
だって差別問題に取り組んで少しずつでも前進している例を知っていますし、いじめも研究によって少しずつ向き合い方がわかってきているみたいです。
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その他苦しんでいる人も自助努力や気の持ちようではなく、環境を変えるだけで救われる(あるいは事態が改善する)ということもたくさんあるわけですよ。
そもそも、上手くいくかどうかは努力や実力以上に環境や運によって左右されるという話もありますし、
生まれた年によって生涯年収が変わるなんて話もあります(『経済成長って何で必要なんだろう』(p147))。
経済政策を失敗しなければ何十万という人の命が救われていたかもしれません。
解決できそう(あるいは改善しそう)な問題を放ったらかしにして、たまたま運悪く苦しんでいる人たちに向かって「現状を受け入れろ」と言うのはどうかと思いませんか?
◎なぜこのような言葉を使いたくなるのか
先程「良いところ」で書いたように自分自身の慢心を問う言葉としては必要でしょうし、同じように欲や慢心によって苦しんでいる人へのメッセージとして使うこともあるでしょう。
ただし、このような言葉を使いたくなるのには以下のような理由もあるように思います。
・綺麗な言葉だから
「ありのまま」とか、「身の丈に合った」とかいう言葉って綺麗ですよね。
でも使う場面によって意味合いが変わってくるのですから、どの場面でも使って良いということではありません。
・仏教っぽいから
小欲知足などの意味で使うのであれば、まさしく仏教的と言えるでしょう。
でもどんな場合にも当てはまるわけではありません。
むしろ「そのままを受け入れる」というよりは「変化する」ことこそ仏教的とも言えるのではないでしょうか。
仏教が生まれた当時のインド社会で、生まれながらにして厳しい身分差別に苦しんでいた方々に対して無常の教え(状況は固定ではなく変化する)や、修行すれば誰にでも解脱できる可能性があるということを説いたのが仏教ですよね。
親鸞聖人だって鎌倉時代の差別問題と向き合っていたわけですし。
・自分が現状維持を望んでいるから
現状維持というのは、いわゆる勝ち組と呼ばれるような方たちにとっては勝っている状態がそのまま続くということになります。
負け組が負け続けていてくれれば自分の立場が脅かされることはありませんから、好都合なわけです。
◎まとめ
「誰もが生まれながらにして尊いのであって、ありのままで良いんだ」
「実は今この場にいることを全うすれば、そこが居場所となるのだ」
という言葉によって、自分自身が問われる分には全く問題ないのだと思います。
ただし、納得したふりをして自分自身を卑下したり、他者に強いるのはやめておいた方が良いのではないでしょうか。
これらのメッセージを伝えるとき、私たち僧侶は相当慎重になるべきだと思うのです。
そして、なぜこの記事を書いたのかはそのうち明らかになるかもしれません。
まあでも、とりあえず難しいことは置いといて、皆さんとともに少しでもやさしい世の中にしていけたらいいなーと思います。
以上!