あかつきブログ

仏教、音楽、世の中の出来事、サッカーなどについてあかつきが感じたことをゆるーく書きます(^-^)

定例法話ネタバレ

9月17日(木)に真宗大谷派名古屋別院(東別院)で定例法話を担当させていただきました。

当記事はお話した内容のネタバレとレポートです。

本当は翌日に書くつもりだったのですが、立て込んでいてかなり日にちが過ぎてしまいましたね。

もしよろしければご笑覧ください。

 

◎テーマ

「さみしさ」はどこからやってくるのか

 

◎内容ネタバレ

1永代経前 9時30分~(本堂)20分間

独生独死独去独来

 人間は自分の目で見て、自分の身体や心で感じる範囲しかわかりません。だから相手の気持ちを完璧に知ることはできませんし、自分の気持ちが相手に伝わっているのかも分かりません。お経のなかで人間は「独生独死独去独来」、孤独の中を生きていると表現されています。

 私たちは、その孤独を忘れるために人よりも上に立って自分の価値を証明しようと努力しているように思います。でも、オリンピックのメダルが金銀銅と3つしかないように、勝つ人がいる裏で必ず負ける人が出てきます。そして、もし勝ったとしてもずっと勝ち続けることができるとは限りません。

 人と比べて、努力して頑張っても上手くいかない。そのような私たちを見守っていてくださるのが阿弥陀さまです。阿弥陀さまのお浄土にいらっしゃる方たちは、全員金色に輝いていると言われています。阿弥陀さまから見れば、全員が金メダルなのですね。本来は私たち一人ひとりがかけがえのない存在なのでしょう。

 コロナ禍において、医療従事者の方々が身を削りながらギリギリの体制で私たちの健康を守ってくださっていることを知りました。本当にありがとうございます。人から認められたい、人より上に立ちたいと自分のことばかり考えて、私を支えてくださる方々の存在に気付くことができていませんでした。もう一度自分を見つめ直す機会にしたいです。

 「独」は孤独の独であるだけではなく、独立の独でもあります。誰もが寂しさや苦しみを抱えているなかで、一人ひとりがお互いを独立した存在として尊重し合ってほしい。一人ひとりに輝いていてほしい。それが仏さまの願いではないでしょうか。「南無阿弥陀仏」とお参りするのは、その仏さまの願いを聞かせていただくことだと受けとめております。

 一人ではできないかもしれません。よかったら一緒に仏さまの願いを聞いていただけないでしょうか。

 

2午前 11時10分~(対面所)30分間

「本願力にあいぬれば」

 誰もが愛する人との別れを経験します。大好きだった祖母が亡くなった当時、悲しみに打ちひしがれていた私の力になってくれたのは妹の存在です。悲しみや不安を、遠慮せずにそのままぶつけ合うことができました。喪失感を埋める特効薬はありませんが、悲しみを共有できる存在の有り難さを知りました。

 祖母が亡くなってしばらくして悲しさが落ち着いてくると、今度は寂しさを感じるようになりました。大切な居場所を失ってしまったのだと実感したのです。また、いつか自分も死ぬのだという恐怖から、夜眠れないこともありました。居場所がないという寂しさ、いつか死んでしまう恐怖、そして虚無感に苛まれていました。生きている実感を得ようと、様々なことを試してみましたがまったく上手くいきません。

 「本願力にあいぬれば むなしくすぐるひとぞなき 功徳の宝海みちみちて 煩悩の濁水へだてなし」という親鸞聖人がお作りになったご和讃は、日々の生活の中で寂しさや虚しさを抱える私たちに向けられた言葉だと受けとめています。本願力とは阿弥陀さまのお力のことです。私たちは「南無阿弥陀仏」というお念仏を通してそのお力と出あいます。ある先生はお念仏を「安心しなさい、いつでも、どこでも、見ているよ、守っているよ」という意味だと教えてくださっています。

 大好きなコーヒーの豆を作ってくださるブラジルの方、普段着ている服を作ってくださる中国の方など、私はお会いしたことのない世界中の方々に支えられながら生きています。もちろん綺麗ごとだけではなくて、動物の命をいただき、辛い思いをしている方の犠牲の上に生活が成り立っていることを決して忘れてはいけません。ただ、独り寂しく生きているつもりでも、気付かないうちに色々な方と関わっているというのも事実です。溺れているつもりが、実は阿弥陀さまの功徳の海に身体を支えられて浮かんでいられるのでしょう。

 私とともに泣いてくれた妹、辛いときに思い出して私の力になってくれる祖母、私と関わってくださる世界中の方々。今でも寂しさ、死の恐怖、虚しさを感じることがありますが、「安心しなさい、いつでも、どこでも、見ているよ、守っているよ」と私を支えてくださる力があるのだと思います。

 一人で解決できる問題はなかなかありません。お寺や仏法を聞く場が、心の中の正直な思いを吐き出して共有できる場となることを願っています。

 

3午後 13時~(対面所)30分間

「ただ念仏のみぞまことにておわします」

 私たちは人や物事を「いい」、「悪い」と価値判断をして、それを元に行動していると思います。食事の際、好きなものを食べて嫌いなものは食べないというように。しかし、価値判断の基準は好き、嫌いだけでしょうか。例えば、会社員の方が残業するときの理由は何でしょう。本来残業する必要はないのに、周囲の先輩の仕事が終わっていないからとか、空気を読んで帰れないといった場合もあると伺ったことがあります。

 世間では空気を読んで行動しなければ仲間外れにされてしまいます。独りぼっちは寂しいですし、人に協力してもらわなければ生きていけません。ですから世間から求められている正解通りに行動して、正しくあろうとするのが自分にとって「都合がいい」選択になります。私たちは好き、嫌いだけではなくて、「都合がいい」、「都合が悪い」という視点から価値判断をすることもあるのですね。

 親鸞聖人は「善悪のふたつ総じてもって存知せざるなり(何が善であり何が悪であるのか私はまったく知りません)」、「ただ念仏のみぞまことにておわします(ただお念仏だけが真実なのです)」とおっしゃったそうです。たしかに、ときと場合によって正しさの定義は変化しますし、善悪を完璧に判断することはできないと思います。では、お念仏だけが真実であるとはどのような意味なのでしょうか。阿弥陀仏という仏さまは、光の姿をしていらっしゃいます。「南無阿弥陀仏」とお念仏を称えるとき、その光に私たち一人ひとりが照らされているのだとお聞かせいただいております。人間が光に照らされるとどうなるでしょうか。影ができます。その影とは、世間の常識や空気に縛られ、仲間外れにされる恐怖に苦しみ、都合のよさを求める私たちの姿ではないでしょうか。そのような私たちの姿を知らせてくださるからこそ、真実なのだと受けとめています。阿弥陀さまの光によって、自らの恥ずかしい姿を自覚させられるわけですが、私にとっては「正しくあろうとしなくていいよ。かっこつけなくていいよ。弱いままでいいよ」という呼びかけにも聞こえてくるのです。阿弥陀さまの光はギラギラとした太陽というよりは、優しく包み込むような月の光に近いのではないかと思っています。

 弱さをさらけ出すのは難しいです。日常生活の中では空気を読んで正しく行動しないとやっていけないこともあります。でも、仏さまの前では弱くたっていいじゃないですか。私も弱さを抱える者の一人として、みなさまとともに語り合い、ともにお参りさせていただきたいです。そして、自分の弱さを知らされたとき、世間から「お前は悪人だ」と無視され、仲間外れにされている方々の声なき声が聞こえてくるのではないでしょうか。

 

◎感想 ・裏話

1「独生独死独去独来

 ある評論家の方が「コロナ禍において、今まで覆い隠されていた差別が顕在化した」とおっしゃっていましたが、本当にその通りだと思います。私も自分自身のあり方を見つめ直す機会となっています。当日医療従事者の友人がお聴聞してくださいました。忙しいと思って連絡していなかったので、法話を通して感謝の気持ちをお伝えできて嬉しかったです。

 「アップデートする仏教」に取り組んでいる先輩がいる関係で数年前『仏教3.0を哲学する』を読んだのですが、当時の私にはピンとこなかったです。しかし、この法話はその本から着想を得ています。こういうこともあるのですね。内容はうろ覚えですし、続編が出ているようなので読んでみたいと思います。

 

2「本願力にあいぬれば」

 愛する人と別れる苦しみを簡単に解決することはできないと思いますし、安易な答えは提示したくないと思っています。グリーフケアの学びが今後ますます求められるでしょうし、私も取り組んでいきたいです。

 仏教によって苦しみを無くして解決・・・というより、悩みながら人生をともに歩む仲間が見出されてくるのではないでしょうか。ともに歩んでくださるのは、いま生きている方だけではないと思います。私たちはお念仏に救われてきた諸仏とともにあって、そしてその歴史が僧伽ではないかと考えているのですがこれはまた別の話。

 

「ただ念仏のみぞまことにておわします」

 懺悔とは自分はいかにダメな存在かと卑下するのでもなく、内心自分は賢いと思いながら謙虚な姿勢でいるのでもなく、教えや人と出あう中で自然と頭が下がることではないでしょうか。そのとき出あうのは、弱さを包みこんでくれる優しい光だと思っています(これはあくまでも私の感覚的な受けとめです)。

 弱さを見せるのは私も苦手ですし無理にする必要はないと思います。でも本当に辛いときに吐き出すことができたら良いなとは思うのですよね。本当はSOSを求めたいのにできない方は多いのかもしれません。仏法に触れる場やお寺が弱さを吐き出せる場所であってほしいです。そして困りごとに対応する場が他にもあるのなら(公共機関など)、おつなぎする役割を果たせないかと考えています。

 

◎今回のテーマソング

Christina Aguilera - Beautiful (Official Music Video)

www.youtube.com

 

◎お聖教以外の参考文献・映像・ホームページ(の一部)

〈仏教3.0〉を哲学する

〈仏教3.0〉を哲学する

 
龍樹『根本中頌』を読む

龍樹『根本中頌』を読む

 

www.live-on.me


1986年 山本仏骨和上(1)

 

おわりに  

 今年は人前でお話する機会が減ってしまったこともあって、いま伝えたいことをつめ込みました。つめ込みすぎたかもしれません。反省点は多々ありますが、次に生かしていきたいです。そして本記事に書いた内容はかなり省略したものなので、実際はもう少し細かくお話しています。

 仏教には色々な道があっていいと思います。人と関わるのが苦手とか、上手く助けを求められないとか、キラキラした場はしんどいとか、そのような思いを抱えながら歩める仏道を模索していきたいです(それは自分自身のためでもあります)。

南無阿弥陀仏