あかつきブログ

仏教、音楽、世の中の出来事、サッカーなどについてあかつきが感じたことをゆるーく書きます(^-^)

定例法話の感想

4/19(月)に東別院(名古屋)の定例法話を担当させていただきました。
少しだけ感想を書いてみます。

 

感想

 テーマは「尊者阿難座よりたち」でした。大経を読み直し、阿難尊者について学び直す機会になったので取り組んでみてよかったです。
後から振り返ってみて言い忘れたことがあった(特に「衣服を整えて」について話し忘れたのは悔しいです)のに気付きましたし、反省点を次回に生かしたいです。

 終わったあと自然と座談会が始まりました。その中で、比喩表現や具体例などがちゃんと伝わったことが確認できて嬉しかったです。そして、ご指摘を受けて「五悪」について単純に「悪いことをしちゃダメだよ」という話だと受けとられかねない表現をしてしまったことを教えていただきました。表現したことに対してフィードバックが得られるのは有難い機会ですね。

 コロナ禍においては難しいですが、希望者のみ法話のあと座談会もやるようにしたら楽しいだろうなと思いました(私が)。

 

当日配布した資料に書いた「私の受けとめ」を載せておきます。

 

私の受けとめ

午前「尊者阿難座よりたち」

 阿難尊者は、ある日光り輝くお釈迦さまの姿に気付いて起(た)ちあがります。それは、お釈迦さまを仏さまとして受けとめ、改めて出あった様子なのでしょう。

 「役に立つ人間にならなくては」と思い、傷つき・傷つけ合いながら苦しんでいる私たちに、阿弥陀さまは「ともに浄土へ向かって歩む者となれ」と呼びかけてくださっているのではないでしょうか。その呼びかけに触れて頭が下がったとき、周りにいる人たちと本当に出あう世界が開かれてくるのだと思います。

 出あうのは目の前にいる人だけではありません。「南無阿弥陀仏」と阿弥陀さまのお名前を称える中で、過去を生きた方々の願いを私たちが受けとめ、その姿が未来を生きる者へと伝わっていくのです。

 

午後「阿難ここにたちて」

 「人間は煩悩を抱え、悪い行いをしているのだ」と言われても、私にとってはどこか他人事のように感じます。他者を批判し、自分を正しい立場に置こうとする根底には、孤独感や寂しさがあるのかもしれません。

 一人も排除することなく照らす阿弥陀さまの光が、「私たちはつながりの中を生きているのだ」と教えてくださっているように思います。

 ともにお念仏を称える生活の中で、同じように寂しさを抱える同朋(なかま)と出あう世界が開かれてくるのではないでしょうか。

 

南無阿弥陀仏