ぎょうげんさんの万博寺に関するポスト メモ&雑感
9月26日に「万博寺」という全国の超宗派の僧侶が一堂に会し、一日限りの寺院を大阪万博に建立するというイベントが開催されました。伝統的な伝道に加えて音楽や漫才を通じた布教も行われたことで大きな反響を呼びました。
私は坊さんバンドの一員として参加させていただき、とても楽しかったです。
偶然来られていた知人とお会いできたり、演奏中通りすがりの方が足をとめてくださったりと嬉しいことがたくさんありました。
出演者の皆さまや運営の皆さま、そして万博寺にお参りしてくださった皆様に支えられながら2日間楽しく参加することができました。
本当にありがとうございました。
その万博寺に対し、ぎょうげんさんから以下のような厳しい意見がポストされました。
「本音言う。国や政治イベントに、僧侶が客寄せパンダとして尻尾振って出て行くなんて、親鸞聖人の門下だと自覚ある者なら裏切り行為だと理解できるはず。…薄っぺらくて吐き気がする。」
このポストをきっかけにXのスペースでえだぽよさんとの対話が行われ、私も聞かせていただきました。
◎ぎょうげんさんの主張
対話をお聞きしてわかった、ぎょうげんさんの主張は以下のとおりです。
「真宗僧侶は、国や政治的なイベントを利用して伝道を行うべきではない。ただしパフォーマンスならよい」
論拠とされたのは、『御消息集』にある親鸞聖人の言葉です。
「慈信坊がもうしそうろうことをたのみおぼしめして、これよりは余のひとを強縁として念仏ひろめよともうすこと、ゆめゆめもうしたることそうらわず。」(『真宗聖典』第二版p706)
親鸞聖人がどの程度反権力的であったのかには議論がありますし、このお言葉が今回のケースに当てはまるのかは慎重に考えなければいけません。前後の文脈や当時の背景(念仏への弾圧や関東の門弟たちの混乱)も丁寧に見ていく必要があります。しかし、「権力を持つ人を頼りに念仏の教えを広めようということはあってはなりません」とこの箇所において親鸞聖人が戒めているのは確かです。他にも有名な「主上臣下、法に背き義に違し…」等のお言葉からすれば、少なくとも念仏の法に背く権力者に批判的である(そしておそらく念仏によって救われてほしいとも思っている)ことは間違いないように思います。
「ぎょうげんさんが何を言っているかわからない」という感想もありましたが、「真宗僧侶が国家的なイベントである万博を利用して伝道を行うことは親鸞聖人への裏切り行為である」という主張は、賛同できるかは別として元のポストもスペースでの発言も筋が通っていると言えるのではないでしょうか。
◎私の勘違い
対話を通して、私の当初の認識に2つの勘違いがあったと気付きました。
➀批判の内容
私は当初万博に自分が目立ちたいだけの「パフォーマンス」をしに行った僧侶を批判されているのだと勘違いしていました。しかし、ぎょうげんさんが問題視されていたのは、真宗僧侶による「伝道」でした。
②批判の対象
この批判は真宗僧侶限定で、他宗の僧侶は無関係でした。
つまり「音楽や漫才等による布教が布教と言えるのか」という論点は、今回は関係がないことがわかります。(これはこれで大事な課題ではあります)
◎雑感
まず私は万博寺を、来場者とともに仏法を味わう場であると思い参加していました。
多くの方とともに手を合わせることができましたし、世界中から来場された万博を楽しむ皆さまの姿は素敵だなと思いました。
私はいかなる場も聞法の場であり得ると考えています。また、「万博を私たちの演奏で包み込みたい」「会場を念仏の声で満たしたい」という気概を胸に秘めて臨んだつもりです。それにもかかわらず、「権力を利用して念仏を広めようとしている」と映ってしまったのであれば、それはひとえに私の力不足であり、表現の未熟さであったと受けとめています。
一方で伝道ではないにせよバンドの認知度を上げたい、活動の場を広げるためのつながりを作りたいという、万博の権威を「利用する」気持ちがあったことは否定できません。名刺も作りましたしね。純粋に万博を楽しんでいた方や、真摯に取り組んでいた僧侶の皆さまに対しては失礼な態度だったかもしれません。だからこそ、ぎょうげんさんの批判はありがたいと感じています。
◎ぎょうげんさんのやりたいこと
スペースでのえだぽよさんとの対話で最も印象的だったのは、ぎょうげんさんの「歌舞伎町の方たちに真宗を伝えたい」というお話です。これには心から共感します。
私は繁華街を歩くのが好きです。それはお店に入るのが好きという意味ではありません。きらびやかな世界であると同時に、その裏に欲望や嫉妬などドロドロとした人間の姿を感じられるからです。私自身、外面を整えていても本来は黒いものを抱えているのだと、自らの汚さを思い出すことができます。また、さみしさや寄る辺のなさ、満たされなさを感じているのは自分だけではないと感じられる場でもあります。そのような場であるからこそ、真宗のみ教えをともに味わうことができる「可能性」が存在すると思っています。
私にもできることがあれば取り組んでいきたいです。
他にも言及したいことはたくさんありますが一旦ここまでにしておきます。