はじめに
私はTwitterのハッシュタグ「僧衣でできるもん」に動画を投稿して、そして削除しました。
その経緯については以前ブログに詳述したので、改めて書くことはしません。
今回は
このような報道があったので、一度動画を投稿した身として総括しておこうという趣旨です。
・僧衣での運転について
以前ブログに書いたように、私の投稿した動画に運転しやすさをアピールする意図はありません。
また、私の衣姿は警察の方たちに認めていただいていると認識していることや、より交通安全の徹底を望んでいることも書きました。
ただ簡単にしか書いていなかったので、今回の件を通して思ったことなどを付け加えます。
まず、改めて私自身の安全性について考えてみました。
普段、運転する際は間衣という道中着で、雪駄は靴に履き替えて、お念珠は鞄にしまっています。
エンジンをかけずに袖や裾がひっかかるか検証してみたところ、ひっかかるためには相当無理な体勢をとらなければならないことがわかりました。
そのような体勢をとる確率は限りなくゼロに近いですし、そのような状況に追い込まれたときには僧衣でなくとも危険でしょう。
また、私の感覚としては体がある程度締め付けられる私服よりも、可動範囲が広がって体を動かしやすい僧衣のほうが運転しやすいです。
もちろん個人差はあると思います。
次に、どのような格好が危険かを判断すること自体が難しいなと思いました。
安全な格好とは「事故が発生する確率がより低い格好」だと(勝手に)定義して話を進めます。
おそらくこれを見極めるのはとても難しいでしょう。
少し動き辛い格好のほうが事故発生の確率が低下する可能性だってあるのではないかと思います。
というのも、「多少動き辛い服を着ている」と意識することによって安全に運転しようという意識が高まるかもしれません。
また、私服よりも制服のほうが慎重に運転しようと思うなど、格好の違いが心境に影響する可能性があると思います。
僧衣を着ると、お坊さんのイメージを傷つけないように無茶な運転を避けようとするかもしれません。
今回の報道や議論を見ていて、サム・ペルツマンのシートベルトの話を思い出しました。
よかったらググってみてください。
また、何が人の行動に影響を与える誘因(インセンティブ)となるか見極めるのは難しく、しばしば人の直感とは異なるものだという話は『その問題経済学で解決されます』に詳しく解説されています。
もちろん、動き辛い格好になるほど事故の確率が増える可能性もありますし、何を着れば安全なのかは様々な状況下で実験して結果を比較してみなければわからないのではないでしょうか。
そして、わかったとしてもどこまでのリスクを許容するかという問題もあります。
僧衣が平均よりリスクが高い格好だとわかったとしても、それと同程度のリスクをかかえる服装を取り締まるかどうかも難しいですね。
裁量で判断されることを避けようとすれば、規制が増えて窮屈になるのを受け入れるか否か・何が安全なのか調査するコストを受け入れるか否かという選択を迫られるでしょう。
世論としては、調べるまでもなくこれまでも僧衣で普通に運転してきたのなら大丈夫なのでは?という感覚があるように思います。
明確な基準が欲しいという声がありましたが、どのように基準を定めるのか・どこまでのリスクを許容するのかという議論は深まっていません。
と色々書きましたが、結論としては以前のブログに書いたようにできる限り安全第一を求めるということで変わりありません。
あと池口龍法さんがおっしゃっているように衣の改良もありだと思います。
また、自動運転など車の技術が進歩することによって服装問題が解決される可能性もあるでしょう。
・僧衣でできるもんへの批判について
まず、僧侶であっても人間ですから、自らの思いを様々な形で表現する自由があると思います。
また、その表現に対して批判をする自由があると思います。
ですから、今回の議論は健全におこなわれているという印象です。
私としては、自分を見つめ直す機会になるので批判や議論は大歓迎です(Twitterで議論する自信はないのですが)。
最初批判されている方の論旨がわかりませんでした。
しかし、内藤理恵子先生が丁寧に議論をされていたので整理することができました。
拾い切れているとは思いませんが、批判には以下のようなものがあったと思います。
・論点がずれている
・議論の邪魔になる
・交通安全という死に関わる問題を軽く扱っている、
・僧衣を粗末にしている
・本堂でふざけて良いのか
・真面目な僧侶が迷惑する
・僧侶の品格を下げる行動は慎むべきだ
そこから派生して
・意識高い系への不満
・伝統を守る意識が欠如していることに対する歎き
などもあったように思います。
これはまた機会があれば別の記事に書くかもしれません。
本堂でふざけて良いのか?という指摘には、私も一部共感します。
動画を投稿した方たちがふざけていたとは思いません。
でも、私自身ご本尊に背を向けて法話をするとき、いつも恥ずかしい思いがこみ上げてきて葛藤するというのはあります。
本堂で演奏する際も、できるだけご本尊に背を向けるのは避けるようにしています。
ただ、ご本尊は本堂にだけいらっしゃるわけではありませんし、「これをしたら救われない」と考えるのは仏智疑惑ではないかとも思います。
宗派の中でも意見が分かれるでしょうし、今後も課題として考え続けていきます。
すべての項目について書くことはできませんが、その他の批判についても一つひとつ検討して自分を見つめ直す機会にさせていただいております。
私は元々リバタリアンでした(今はリベラル寄りですけど)。
他者の自由を侵害しない範囲で自由があると考えています。
娑婆において絶対的な正解や真理があるとも思いません。
ですから、議論を通して自分自身を見つめ直した上でまだ考えを曲げたり行動を変えたりしたくないのであれば、あとは他者の自由を著しく侵害しているかどうかを判断基準とします。
他者の自由を侵害すると判断すれば、自分の気持ちに関わらず行動を変えることもあるということです(パレート効率の考え方も根っこにあります)。
今回の件に関しては、当初批判を受けとめつつも他者の自由を奪ってはいないという判断から動画の削除はしていませんでした。
では、なぜ動画を削除したのかというと、理由は以前のブログにも書きましたが抽象的だったので本ブログ中に後述したいと思います。
・僧衣でできるもんは成功だったのか
青切符が切られたものの「証拠が不十分」として書類送検されなかったという結果に終わりました。
ハッシュタグのバズりがあった場合となかった場合で警察の対応が変わったのかどうかはわかりません。あったとしても、そのような裏事情は発表されないでしょうし。
私としてはできるだけ表に出ている情報だけで判断したいので、「証拠が不十分として書類送検されなかった」という認識に留めておきたいと思います。
その上で邪推するならば、ハッシュタグがあってもなくても「負ける可能性がある」という理由で裁判まで持ち込まなかったのではないでしょうか。
また、圧力が効いたのだとしてもハッシュタグというよりは本願寺派を意識したのではないかと思います。
では、僧衣でできるもんは失敗だったのかと言われるとそうとも言い切れないです。
法は民主主義によって作られるもので、上から押し付けられるものではありません。
世論の後押しは必要だと思います。
僧衣が一般の方が思っている以上に動きやすいことがアピールできたのではないでしょうか。
ただし、アピールが成功した要因はハッシュタグを後押しする報道がほとんどだったことによると思います。
ワイドショーなど、メディアの取り上げられ方によっては世論がひっくり返る危険性もあったでしょう。
教えや、その受けとめには多様性があって良いと思いますし、一部僧侶の行動だけで全体の印象が落ちるとは思っていません。
むしろ堕落した僧侶が跋扈する中において、真面目で愚直な僧侶がより輝くということだってあるのではないでしょうか。
堕落した(ように見える)僧侶が、誰かに仏縁をもたらすこともあるでしょうし。
ただし、今回のように世論がどちらに転ぶかわからない上に大きな反響がある中では、仏教界全体に反発する空気が醸成されてもおかしくなかったと思います。
そうなってしまっては、ハッシュタグに参加していない方の自由を著しく奪うことになるでしょう。
これが、私にとって動画を消す理由の一つになりました。
ですから、アピールに成功したとはいえ僧衣でできるもんを手放しで称賛しようとは思いません。
ただ、今後の行動や展開次第でまた変わってくるでしょう。
注目を浴びたなかで、法を説き・愚直に頑張る僧侶が日の目を見て・交通安全や仏教界を考え直す機会となるならば、ハッシュタグがあって良かったと思えるときがくるかもしれません。
これからの私たちの行動次第ではないでしょうか。
おわりに
バック宙をされ方、青切符を切られた僧侶の方、青切符を切った警察の方が苦しんでいないことを願っております。
もし苦しんでおられるとしても、力になることができないことを悔しく思います。
また、ハッシュタグに投稿して指摘を受けた方も、指摘をした方もともに心に傷を負っていないことを願います。
私は正直、自分の投稿にいいねやRTが増えていくのが怖かったです。
ハッシュタグに抗議の意図はなかったとしても、僧侶VS警察という対立の構図で捉えられた面もあったと思います。
青切符を切った警察の方は、ハッシュタグを含め今回の件で相当の圧力を感じたのではないでしょうか。
これが動画を削除した2つ目の理由です。
もし苦しまれているようであれば、周りの方々がケアしていただきたいです。
これで一応区切りにはしますが今後も考え続けますし、また気付いたことがあればブログを書きたいと思います。
真宗僧侶である私としてはお念仏が大切であり、信心が問われ続けていくのだと思います。
そのなかで教えを通して、人の悲しみに寄り添い、人を楽しませることもできたら素敵だなと思います。
これからもよろしくお願いいたします。