人間は死んだらどこに行くのでしょうか?
という質問を二回いただきました。
でも二回とも消化不良な回答しかできていません。
私が仏教に触れたばかりの頃、先生や先輩に質問したのにはぐらかされたことを思い出しました。
今となっては先生や先輩方がはぐらかしていたわけではないのだとわかりますが、当時は寂しかったです。
というわけで、書ける範囲でブログ記事にしようと思い立ちました。
私のパーソナルな部分は明かせませんし、全部書ききる能力もないのであくまでも触りの部分のみです。
◎問いの内容について
「人間は死んだらどこに行くのでしょうか?」という問いは、人間を客観視しようとしている、あるいは人間という存在を抽象化した問いであると思います。
質問者さまは具体的な出来事に触発されての質問だったのだろうと推察します。
その割には客観的な立場から理解することを試みているように見えるのです。
その姿勢には共感しますし、好感が持てます。
一歩引いて見ることで視野を広げることができますし、冷静に思考できますから。
ただし、今回の問いに関しては「私の」という姿勢が大切だと思います。
自分ごとだからこそ道を歩み始めることができるのではないでしょうか。
(そうではないケースもあるでしょうけど)
「自分ごと」というのは例えば
私は死んだらどうなるの?怖いんだけど・・・
あの人は死んでどこにいるの?寂しいんだけど・・・
というような問いです。
◎なぜ「自分ごと」である必要があるのか
「死んだらどこにいくのでしょうか?」ということは、今現在いる場所はわかっている前提で質問していますよね。
ところがその前提が怪しいのです。
他人のことだけではなくて、今あなたがどこにいるのかさえわかっているか怪しいように思います。
なぜわからないのか・・・
その理由は、今ここに立っているはずのあなたとは誰なのか・・・それがわからないのではないでしょうか?
誰が今ここに居るのか。
言い直すと「どこへ向かうのか」と問う以前に、その行動主体である「わたし」が何者かがはっきりしないのです。
普段私たちは「わたし」という他から独立した存在があるのだと感じているでしょう。
だから、
わたしは好きだ
わたしの持っているカバンだ
わたしのほうがすごい
というようにわたしがあるという前提を問うことなく、わたしを主語にして物事を考えて世界を見ています。
条件によって左右されない、変化しないわたしがいると思っているのです。
ところがその設定が怪しいことを、うすうす感じているのではないでしょうか。
年齢を重ねて身体が思い通りにならなかったり、病気になったり、いつか死んだら存在自体が消えてしまうかもしれません。
また周囲の環境が変化するなかで自分を見失ってしまうこともあります。
今のわたしが崩れていくのが怖くてたまらない。
だから自分を飾り立てたり人より上に立とうとする。
それでも常に上手くいくとは限りませんし、時間が経つにつれて上手くいかなくなることもあります。
そうやって苦しみが生まれてくるのではないでしょうか。
仏教ではこのように「わたし」に執着することを我執といいます。
仏教では独立不変のわたしがあるのではなく、縁起のなかで存在しているのだと言われています。
他との関係の中で存在しているということです(超ざっくりで言葉足らずな表現ですが)。
縁起の中で存在しているにもかかわらず、「わたし」という独立不変の存在を生み出してしまう。
しかし、そのような「わたし」という存在が生まれることがなくなれば、滅する(死ぬ)こともありませんし苦しむこともないでしょう。
だからこそ、仏法に照らされながら自分自身を観察する必要がでてきます。
というわけで「自分ごと」である必要があると思うのです。
◎じゃあどうすれば良いのか
これまで書いてきたことを頭で理解するだけでは、「わたし」への渇望はとまらないでしょう。
修行によってレベルアップしていって、覚(さと)る必要があります。
しかし、お釈迦さまが入滅されてから長い時が経った今の時代に暮らす私たちにとって、修行して覚るのはとても難しいことです。
実はそのような私たちのことを思い、どんな人でも救おうと願い・誓った仏さまが阿弥陀さまなのです。
阿弥陀さまが成仏する以前、法蔵菩薩だった頃に私たちの代わりに修行を全部やってくださいました。
そのおかげで、私たちは「ただ念仏」すれば救われるのです。
念仏とは「南無阿弥陀仏」ととなえることです。
すごいですね!
でも信じられますか?
信じられませんよね。
実は真実報土へ往生する(本当に救われる)ためには信心が必要だと言われています。
でもなかなか信じられないので易行難信(修行は簡単だけど信じることが難しい)と言われています。
「まかせなさい」という呼びかけを疑い無く聞けるか。
阿弥陀さまのよびかけを聞いて、あぁ私は悪人なのだと頭が下がるか。
というところが問われているのだと思います。
◎結局質問への回答は?
というわけで「人間は死んだらどこに行くのでしょうか?」という問いに対する答えは
「浄土へ往きます(往生します)。ただし、何でもアリというわけではありません」
という回答でどうでしょうか?
ただ、「何でもアリではないからね」と仏さまから直接言われるならともかく、人間である私が救われる条件を説明するのは仏さまのお力を疑っているようで表現が難しいところです。
阿弥陀さまは信じることのできない私たちを見捨てることなく、追いかけてきてくださると思います。
ここに書いたことはあくまで触りの部分ですし、間違っている点も多々あるでしょうからあまり鵜呑みにしないように気を付けてください。
私が言いたかったのは、
「あなた自身はどうなのかと、問われたときから生きられる」
ということに尽きます。
あと、亡くなった家族や親戚が浄土へ往生しているのかと疑問に思うかもしれません。
他者が往生したかどうかを客観的に判断することはできないと思います。
ただし、亡き人を通して私に手を合わせる機会を与えていただいた、これは浄土からのはたらきであると頂いてみてはどうでしょうか。